「ぅわぉふっ!寝すぎた!」
どうやらタンスの前で力尽きてしまったようだ。
着替えを手にしたまま床に突っ伏して寝ていた。
「もうこんな時間かよっ!」
机の上の時計を見て俺は憎々しげに叫んだ。
しかし時計を恨んでもどうしようもない。
時間は元には戻らないのだ。子供でも知っているそんな当たり前のことを今、痛感している。
幸いにして、まだ時間の猶予は多少残されていた。
俺は急いでシャワーを浴び、身支度を整えた。
「今日は買い弁だな…」
制服に着替えた俺は時計を見てそう呟いた。
今から弁当を作っている時間などない。
すずには悪いが今日ばかりは身銭を割いていただこう。
というかそれが普通なんだが。
しかし急いでいてもすずを起こしに行かなきゃいけないのが厄介だ。
放置していってもいいが…どうなるか想像は容易だ。
何か忘れてる気がするが…まぁいいや。
案の定すずは起きていなかった。
やはり俺が起こしに来ないと駄目か。
「おい…今日はマジで遅刻するぞ」
どうか今日は一発で起きて欲しい。いつもの流れだと今日は共倒れだ。
「むにゃむにゃ…もう少し…」
まーたこれだ。
「早く起きないと置いてくぞ」
いつもなら半分冗談だが、今日は割と本気だ。
「おまえ…本気で先行くぞ?」
「ん…いってらっしゃ~い…」
もう知らねぇ。
俺はドアノブに手をかけた。
「早く着替えろって!ホントに間に合わねぇぞ!」
俺は部屋の中にいるすずに向かって叫んだ。
「ふえぇ~、ちょっと待ってよぉ」
女は急いでいても時間がかかる生き物だ。
「やっべ…走っても間に合うかわかんねぇな…」
俺が右腕の時計を眺めて憂慮していると、ようやくドアが開いた。
「できたっ!」
どうやら彼女なりに急いでいたようだ。
それは彼女の格好から判別できた。
ブラウスの裾が片方だけスカートからはみ出しており、ボタンは上から2番目まで外れていた。
…胸元からは水色のブラジャーが確認できた。
ソックスも片方だけだらしなく足首までずり落ちている。
…急ぐにしてもこれはちょっとひどいだろ。
「急ぐのは有り難いんだが…これじゃ外に出せねぇよ」
「だって衛慈が早くって言うからっ」
すずはそう言って少しだけふてくされてしまった。
「そうだったな…うん。俺も悪かった。と、とりあえずボタンは留めてくれ…」
俺はすずから目を逸らし、直し終わるのを待った。
…ヘタレとかそういう非難はやめてほしい。
こいつを始動させる時が来た。
エンターサプライズ号…俺の愛機だ。
ロック解除、俺はコックピットに乗り込み、ハンドルレバーを握りしめる。
こいつの鼓動が聞こえてくる…。
「行くぞっ…!」
機体と一体になるのを感じ、俺はそう小さく叫んだ。
しかし返事は愛機ではなく、背中から聞こえた。
「おーっ!すくらんぶるだぁ!」
時間がないのに相変わらず余裕だな。
意味わかって言ってんのか?
そういえばペダルは地面と平行な位置で踏むといいって、どこかで聞いたな…。
しかし今はどんな漕ぎ方でも走るしかない!
「出撃!」
俺は定員オーバーのためやたら重たくなったペダルを踏みしめる。
速く。迅く。
流れゆく風を纏いながら。
向かい来る風に抗いながら。
ただ無心に自転車を走らせた。
一方で、俺の理性は背中に当たる柔らかい感触と闘っていた。
「ハァッ…ま、間に…合ったぁ…」
俺は息を切らして教室に辿り着いた。
いい…、運動になった…ぜ…。
もはや汗だくである。まだ4月なのに。
そんな俺に祐はいつものように寄ってくる。
「寝坊?すごい急いできたみたいだけど」
「おまえ…よく10kmもチャリ漕いでられるな…しかも毎日」
「あ、あははは…。でも衛慈が寝坊なんて珍しいね」
「あぁ、不覚だ…。もう動けねぇ…」
ガララッ!
教室のドアが開けられる音とHR開始のチャイムが重なった。
「はぁっ…はっ…間に合ったか…」
先生、生徒とやってることが同じなんですが。
実はハル先生、遅刻が多いことでも有名なのである。
それでもYシャツジャージは忘れないんだな。
「よし全員いるな…それじゃ今日も勉学に励んでくれ…。あと現国はこないだのテスト返す。終わりっ…はぁ。」
そんなわけで今日は都合によりいつもより更に短いHRだった。
「さってと、一時間目は…?!」
黒板脇の時間割に目を向ける。
俺は驚愕した。
時間割を見るまでもなかったようだ。
周りを見ればクラスの奴らは運動着に着替え始めている…。
うへぇ…一時間目から体育かよ…。
「どうしたの衛慈?早く着替えて行こうよ」
既に着替え終わった祐が話し掛けてくる。
なんとやる気に満ち溢れていることか。
「もっとこう…体慣らしてからやろうって…」
これは弱音を吐かざるを得ない。
「?…いいから早く行こうって」
そう言って祐は上着の袖をクイクイと引っ張ってくる。
俺は観念して重い腰を上げ、渋々と着替えを始めた…。
…ひたすら走る種目ではないことを祈って。
キーンコーン…
半日の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
体育以降は座学だったのでどうにか体力を使わずに済んだ。
返された現国のテストもそれほど悪くはなかった。
いつもながら、『筆者の心情を表せ』という問題は苦手だ。
不正解ではないのだが、微妙にズレていることが多い。そのため今回も部分点扱いだった。
半日が終わったこととテストの結果に俺は軽くため息をついた。
「祐、学食行こうぜ」
弁当の無い今日は学食で済ませることにした。
「いいよ~、寝坊したんじゃ弁当持ってきてないよね」
俺は祐を連れて食堂に向かった。
と言っても祐は昼飯を持ってきているんだが。
ただの付き添いである。
俺は学食が苦手だ。
周りを見れば親しくもない人間ばかり。
そんなところで飯を食うのはいささか憚られる。
少なくとも俺はそういう人間だ。
食堂がいつも混んでいることも原因かもしれない。
そんな雑踏の中、誰かに呼ばれた気がした。
…気のせいだな。俺を呼ぶ人間なんてそういるわけない。
そう思い、俺は祐が確保していた席へと向かった。
「ふーじぃ先輩ってばぁ!!」
今度は明瞭に聞こえた。
声に振り返ると、学食のトレーを抱えた女子がこちらに向かっているのが見えた。
この呼び方をする人間には未だ一人しか出会ったことが無い。
だから、誰だかすぐ理解できた。
「鴫原…なんでおまえがいるんだ?」
こいつは鴫原(しぎはら)。
俺の一つ下の学年で、中学からの後輩だ。
「ひどいっ!!先輩を追いかけて入ってきたのに!」
またわけのわからんことを。
「先輩…探したんですからね?」
上目遣いでうるうるすんな。
何がしてぇんだよ。
まぁ面白いから少しだけ相手をしてみるか。
「そっか…それは嬉しいことを言ってくれるな」
俺は少しだけ嬉しそうな表情を作り、鴫原にそう返した。
「やだ先輩本気にしちゃったんですか?冗談ですよ?」
…。
「先輩のためにわざわざ自分の高校決めませんって」
……。
やはり相手をするのはやめにした。
そういえば昔っからこういう奴だった。
相手をするのが面倒になった俺は祐の隣に座り、学食の親子丼をかき込み始めた。
「ちょ、先輩ってば冗談ですって!そんなに怒んないでくださいってば!」
まぁこれくらいのことで怒りはしないが…。
やられっぱなしじゃ面白くない。
少ししょげた鴫原は俺に続いて同じテーブルに座り、カツカレーを食べる。
カツカレーとはなかなか重たいものを…。
「そういえば昨日久しぶりに先輩の家の近くまで行ったんですよ~」
俺が食べ終わる頃、鴫原が急にそんなことを話し始めた。
「そしたらなんか急に眩しくなったんですよ!先輩の家の辺りが近くが発光源ですねありゃ」
ん…?昨日…。
「まったくあの辺にも人騒がせな人がいるんですね~」
…!!!!!
「せんぱい?」
急に立ち上がったことに驚いたのか、鴫原はキョトンとした表情で俺を見上げる。
「祐悪い!!こいつ片付けといてくれ!!!」
俺は昼飯のトレーを祐に半ば強引に押し付けた。
「う、うん…別にいいけど…なんで?」
「ちょっと”わすれもの”したっ!!!」
突如として食堂を走り去る俺は奇異の対象だっただろうが、気にしてる余裕は無い。
俺は家までただひたすら全力疾走した。
それは自分が今朝自転車で来た事も忘れるくらいに。
それだけ頭の中は『忘れ者』でいっぱいだった。
第7筆 終
続きます。