午前から午後にまたぐ時間。
太陽を遮る雲はなく、老化を促進する光線が燦々と放射されている世界。
それを全身で浴びながら、ひたすら家路を急ぐ。
「はぁっ…はぁっ…」
俺は馬鹿だ。
あんな小さな子を家に置いてきてしまった。
しかも普通の子供じゃない。
うちの子でもないし、そもそもこの時代の子ですらない。
俺たちの常識が通用するとは限らないし、一人で何をするか見当もつかない。
そもそも現代のガキでさえ、常識があるとは到底思えないが。
…これはきっといつの時代でもそうなんだろうと思う。
家路の途中、俺の思考は一人の少女に占拠されていた。
何もないことを願いながら朝通った道を戻る。
早すぎる帰宅。
俺は玄関のドアを開け、靴を乱暴に脱ぎ捨てて家に上がる。
最初に通るのは居間。
ここでテレビでも見ててくれればどれだけ安心できただろう。
残念だが安らぎとはそう都合よく手にすることはない。
それが現実というものだ。
居間はおろか、1階に紫の姿は見当たらなかった。
不吉な考えが俺の脳裏を掠める。
『家にいないかもしれない』
「それはやばいだろ…常識的に考えて」
……。
…。
待てよ。
常識的に考えて?
そもそもこの状況が既に非常識だ。
「すずは何も言ってなかったな…」
昨日のことが現実なら、あいつも知っているはずだ。
だが紫はおろか昨日のことについては何も言ってこなかった。
そうだ。
あ れ は 夢 だ 。
「何やってんだ俺は…」
たかが夢にここまで振り回されるとは。
戻ったとき、祐になんて言い訳しようか…。
「本当に馬鹿だったんだな…俺は」
先ほどとは違う意味で、俺は馬鹿である。
俺は大きく溜め息をつき、急に脱力k…いや、虚無感に襲われた。
それと同時に自分に対して苛立ちを覚えた。
いつもならこんなことあり得ない。
ただ、夢にしてはあまりにも鮮明すぎた。
それがいけなかった。
「仕方ねぇ…学校に戻るか」
急いで戻れば午後の授業には間に合う。
こんなとこで道草を食ってられない。
そう思い、俺は玄関へと踵を返す。
……。
…。
「…一応見ておくか」
せっかくわざわざ来たんだ。
念のため確認しても罰は当たらないだろう。
まぁ…誰もいるはずがないが。
特にあの部屋には。
このドアに手をかける。
ただそれだけのことをいつも俺は躊躇ってしまう。
しかし一度気になってしまうと確認するまで気が済まない。
どうやら俺はそういう性格だ。
覚悟を決め、ゆっくりとドアを開けた。
まるでそこにいる誰かを起こさないかのように。
子供用の、少し小さいベッド。
このベッドで眠る人間はいない。
…はずだった。
ベッドを覆う布団は低くも確かに隆起していた。
微かに聞こえる寝息は、そこに生き物がいることを示している。
俺は恐る恐るベッドに近づく。
昨日出会った少女が、いる。
その艶やかな黒髪に触れ、幻像ではないことを理解する。
「夢じゃ…なかったようだな」
俺はこの現実に落胆し、顔を押さえる。
同時に、心のどこかで安堵している自分を感じた。
何に対して、何故なのかはわからない。
「ったく、いつまで寝てんだよ…」
カーテン越しからも今がもう昼間だということがわかる。
それだけ今日は日差しが強い。
しかし布団の中の少女は起きる気配がない。
俺は窓際に向かい、カーテンを開けた。
「ん…」
突如入った強い日差しに、彼女はようやく目を覚ました。
半身を起こし、辺りを見回す。
開き切っていない小さな瞳が俺を捕捉する。
「おぬしは…?」
眠い目を擦り、口を開く。
一晩世話になっておきながらそう言うか…。
少しノッてみることにした。
どうせ寝起きで頭も回らんだろう。
俺は少女の傍らに屈んだ。
「我、姫君に仕る者に候」
……。
…。
しまった。これはちょっとまずい。
自分でも気持ち悪いと感じられる。
しかし紫の反応は意外なものだった。
「ふむ…今は何時ぞ」
…流されてしまった。
「確か…未の刻に」
焦った俺は思わずそのままの口調で返してしまった。
さすがにもう気付くだろう。
「そか…」
しかし紫の反応は相変わらずだった。
彼女はまた横になり、布団に潜ってしまった。
「っておい、もう昼だって!」
俺は彼女が再びまどろむことを許さない!
「おぬしはつれなし者じゃの…。緩々と寝せよ」
すずといいこいつといい、俺の周りは寝るのが好きらしい。
…そう。
俺は小さいときから人を起こしてばっかりだ。
「薄情者扱いかよ…」
心配して戻った結果がこれだよ!
昼休みは戦士たちにとって大いなる休息の時。
まさかこんな形で浪費してしまうとは…予想外だ。
この様子なら夕方まで放っといてもよかった気がする。
そんな俺のを他所に、紫が起き上がる様子はない。
「…もう起きろ!」
俺はすずにしているように、布団を強引に引き剥がした。
知らない子供のパジャマ姿はさすがに焦った。
「いいか、俺が帰ってくるまでここにいてくれ」
朝兼昼飯を彼女が食べ終えた頃、俺はそう忠告した。
注意するのは火事くらいで、家にいてもらうほうが面倒が少ない。
街を探し回るのはさすがに無理がある。
…別に探さなくてもいいんだが。
「何故じゃ?かかる狭き所に閉じ込められるのは嫌じゃ」
もちろん当然のように彼女は納得してくれない。
素直に言うことを聞くわけではないようだ。
おそらく平安貴族の娘とかそんな設定になっている筈だ。
こんな家よりずっと広い屋敷に住んでたに違いない。
だが年端もいかぬ子供一人に引き下がる俺ではない。
「外は今の子供でも危ない目に遭う…おまえには尚更危険だ」
見た目も子供だが、何よりこいつはこの時代を知らない。
その辺のクソガキより常識がないだろう。
しかし人間とは好奇心の強い生き物だ。
危険と言われると行きたくなるし、怖いと言われると見たくなる。
特に子供は感情のままに行動する。
…俺だって昔はきっとそうだった。
「まだ童女扱いしおって…わらわを軽むなかれ」
紫は俺の心を読んだのか、子供扱いされたことが気に食わないようだ。
その後も俺の説得が続いたが、紫は首を縦に振らない。
「こうなったら…」
俺は思いつく最後の説得を取った。
「わかった…明日休みだからいろいろ連れてってやるよ」
俺は明日の自由を犠牲にした。
つまり、俺の負けだ。
「む…然らば仕方ないのう。さまでわらわと外歩きを欲すか」
わかってくれたようだが、今度は俺が納得いかない。
これだと俺が一緒に行きたいと言ってるみたいじゃないか。
もちろんそんなことは少しも思っていない。
だがこの門答を終わらせるには、どちらかが折れなければいけない。
それは俺だろう、年齢的に考えて…。
さらば春の週末。
明日のゲーム三昧は脆くも崩れた。
せめて日曜は満喫しよう。
脱ぎ散らかした靴に足を入れる。
「…疾く帰るのだぞ」
玄関まで来た紫が催促する。
まるで仕事に向かう親を送り出す子供のようだ。
これで『お土産』なんて言われたらまさしくそれだ。
「はいはい」
どうやらそれ以上はないようだ。
そういえばこの家で誰かに送り出されるのなんて…久しぶりだ。
第8筆 終
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