簪…手の平ほどの髪飾り。
だがそれは確かに犬の胴体へ深々と突き刺さっている。
完全に沈黙している…死んでしまったのだろうか。
簪で殺す、こんなことをできる人間がいるのか。
俺は簪が飛んできた方向、後ろを振り向いた。
そこには人影が一つ。
投げたのはこいつだろうか。
というか女なのか?
後ろの沈みかけた夕陽が眩しい。
「…れろ」
彼女が何か呟いた。
遠くてよく聞こえない。
「姫から離れろっ!!!」
『姫』だと?
…誰が?
辺りを見回すが、それらしき人はいない。
だいたい姫って何だよ。
今の世の中、姫なんてのはブスが無理矢理周りに言わせてるくらいだろ。
どっちかっつーと魔女だろ…鏡に話しかけて絶望するオチの。
ってそんなことはどうでもいい。
俺は声の先へと視線を戻した。
そこには…もう誰もいない。
そう、『そこには』いなかった。
眼前に迫る人影。
背後から聞こえる少女の声。
何と言ったかはわからない。
女は僅かに反応したが、攻撃の勢いは殺せなかった。
一瞬の銀閃。
全身を打つ激しい衝撃。
脇腹を突き抜ける激痛。
何が起きたのか、すぐ理解できた。
簪が引き抜かれ、紅線が空に描かれる。
「ガハッっ!!!」
痛みに声が漏れ出てしまう。
じわりと滲み出す血。
膝をつき、その場に倒れ伏す。
砂利で顔が痛い。
「これが毒ってやつか…」
あの犬と同じ自分が無様だ。
こんなときに自嘲とは随分余裕なものだ。
っておい野良犬、本当に死んじまったのか…?
たとえ嫌いな動物でも目の前で死なれるのは見たくない。
誰かの靴音が聞こえる。
…すずだ。
マズい!
ここは危険だ。
視界の隅で何かが動く気配を感じた。
「来るな!!」
出せ得る限りの声で叫ぶ。
力を搾り出し手を伸ばす。
この女を止めなくてはすずが…。
「やめ、ろ…」
己が手の短きことを恨む。
○ム○ムの実を食っていれば引き止められたかもしれない。
海とか行かないから副作用で泳げなくても構わん。
あー、でも一度くらい女と海に行ってみたかったなぁ…。
だが俺の手は何も掴むことなく虚空に泳ぐ。
犬…立ってあの女に噛み付け!
一歯報いろ!
誰でもいい。
すずを助けてくれ!
動く気配が一つになった。
もちろん犬ではない。
俺は耐えられず、目を伏せる。
無力な自分が悔しい。
足音が再び近づいてくる。
…止めを刺すつもりか。
もう動けないので抵抗もままならない。
俺の目の前で足が止まる。
『死』を感じた。
こんな理不尽な形で人生が終わるとは…。
鈍くなった感覚に伝わる感触。
優しげで、いつも傍で感じていた温もり。
目を開けると見慣れた顔がそこにある。
すずは…無事だった。
ぼんやりと意識が遠くなっていく。
すずの言葉がよくわからない。
聞こえてはいるが…頭が回らず理解できない。
ただ俺は自分の状況を忘れ、すずが生きていることに安堵した。
あぁ、魂が肉体を離れていく…。
女と少女の姿が視界の隅に映る。
おまえだったのか…。
「あ、やっぱ死にたくねぇな…」
消えていく意識の中で呟いた、最後の言葉だった。
第10筆 終
続いてしまう。